2017年12月22日金曜日

お女郎縁起考その10


過去の記事連載!お女郎縁起考(当会ホームページより)http://araijuku2011.jp/%e9%80%a3%e8%bc%89%ef%bc%81%e3%81%8a%e5%a5%b3%e9%83%8e%e7%b8%81%e8%b5%b7%e8%80%83/

お女郎はどこから来たか?-東武鉄道沿線名所案内より

  知人からお女郎に関する記述があると大正3年(1914年)発刊の「呑龍上人御実伝」という本をいただきました。呑龍上人とは江戸時代初期の浄土宗の僧で、群馬県太田市の大光院という寺を開基した人で、孤児や貧しい子供を引き取って養育したので別名「子育て呑龍」といわれ、今でも篤い信仰を集めています。(太田市HPより)
 その呑龍上人の伝記ですが、その付録に東武鉄道沿線名所案内という観光案内があり、堀切の菖蒲園や西新井大師など、東武沿線の観光地が詳しく解説されています。その中に「安行植物培養園という案内があります。これは園というより安行一帯の植木農家のことを指していると思われますが、その説明の後、女郎仏に関する記述があります。おや?という内容ですが、当時おそらく地元の人たちが考えていたお女郎の顛末が記されていますので一応全文を紹介します。


 「また、安行の西、神根村字石神に女郎仏あり。①越後高田の豪農某氏の一女、堕落の末、家を追われ、ついに②江戸新宿(内藤新宿)の娼妓となり、応報の因果は不治の病の悪疫を得て、再び郷里に帰らんとする途中、③板橋より日光街道に入り、鳩ケ谷をへてこの石神に着せるとき、病革まり(悪化し)敗残の身を哀れ路傍の草露に託して、時は寛政二年弥生の六日、無情の鐘を合図に現世を去れり。里人これを憐れみ、一宇の堂宇を結んで女郎仏と名付け、今は新暦四月六日を忌日と定め、毎年法要を怠らず、且つ盂蘭盆には大法要を行う。いつの頃よりか腰より下の病気に霊験ありと伝えられ、四時香華の絶え間なく、法会の際の如きは境内雑踏を極む。」
  

 100年前の人々はこのようなストーリーを考えていたようですが根拠は不明です。お女郎伝説の諸説というべきものでしょうか?しかしこれにはお女郎が何処の誰で、どこから来てどこに向かっていたのかが示されています。

① 越後高田の豪農某氏の一女
 
この名所案内ではお女郎の出自を「越後高田の豪農某氏の」としています。やはり越後説は昔からあったのですね。しかし越後新発田藩主のご落胤ではなく越後高田の豪農の娘とは?このように具体的に示しているのは何か根拠があったのでしょうか?

② 江戸新宿(内藤新宿)の娼妓となり
 
この娘が堕落の末、内藤新宿(江戸四宿の一つ。甲州街道の入り口にあたる。現在の新宿区一~三丁目)の女郎となったそうですが、女郎となったのはともかく、新宿に住んでいたというのも何が根拠なのかわかりません。もしかしたら手掛かりがあったのかもしれませんが、それなら今でも妙延寺の縁起に書かれているはずなので、根拠は薄いと言わざるを得ません。

③ 板橋より日光街道に入り、鳩ケ谷をへてこの石神に着せるとき
 
これが一番謎なのですが、①②が当時の人がストーリーを仕立てるための創作だとしても、この、越後に帰るのに、板橋より→日光街道に入り→鳩ケ谷をへて→この石神に着せる時、という無茶苦茶なルートは、当時の人たちの地理感覚が今ほど正確でないとしてもありえないほどずれている。なぜこのように見当を付けたのでしょうか?まず、江戸から越後に至るルートを見てみましょう。
地図に修正液で書いたので甚だ汚いですが、江戸から越後高田もしくは新発田藩説の柴田のルートを書いてみました。

越後高田あるいは越後新発田に向かうには以下のルートがあります。

越後高田ルートは中仙道―北国街道
越後新発田ルートは中仙道―三国街道もしくは日光街道―会津街道


 お女郎の故郷が越後高田だとすれば板橋から中仙道―北国街道のルート以外にはない。しかしこの東武鉄道沿線観光案内では以下のルートをたどったとしています。
東武鉄道沿線観光案内のお女郎ルート

  なぜそのまま中仙道を進まなかったのか?また、何かの理由で鳩ケ谷宿に立ち寄ったとしても、なぜ日光御成道から来ずに千住宿を経由したのか?この観光案内には書かれていませんが不合理と言わざるを得ません。
  しかし、これが書かれた当時の地元の人たちが、"あること″を考慮に入れてこのような見当をつけたとすれば、あながち荒唐無稽とは言い切れなくなります。それどころか真実味さえ帯びてくるのです。それは、

「寛政2年(1790)3月1日に当地方に大きな暴風雨があり」

という記述です。

次号に続く。

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