2018年4月28日土曜日

お女郎縁起考 大宮宿編その3

過去の記事連載!お女郎縁起考お女郎の旅路編(当会ホームページより)http://araijuku2011.jp/%e9%80%a3%e8%bc%89%ef%bc%81%e3%81%8a%e5%a5%b3%e9%83%8e%e7%b8%81%e8%b5%b7%e8%80%83/

その続き
お女郎縁起考 大宮宿編(当会ホームページより)
http://araijuku2011.jp/1486-2/



鬼平、長谷川平蔵宣以(のぶため)
 
コミック版鬼平犯科帳(リイド社)さいとう・プロダクション公式サイトより
 
巨盗、神道徳次郎を捕らえた長谷川平蔵ですが、鬼平犯科帳のイメージが強すぎて、その経歴を知る人は少ないかもしれません。


長谷川平蔵経歴

延享2年(1745)    旗本長谷川宣雄の嫡男として生まれる。
明和5年(1768)23歳 将軍家治の御目見え。
安永元年(1772)29歳 父宣雄が京都西町奉行に就任し、平蔵も妻子とともに赴く。
安永2年(1773)30歳 父死去のため家督を相続する。
安永3年(1774)31歳 西の丸御書院番士。
天明4年(1784)39歳 西の丸御書院番徒歩頭。
天明6年(1786)41歳 御先手組弓頭
天明7年(1787)42歳 御先手組弓頭加役の火付盗賊改方長官に就任
寛政元年(1789)44歳 神道徳次郎一味を捕縛。(4月)
            老中・松平定信に石川島人足寄場設置を建言。
寛政2年(1790)    加役人足寄場取扱を拝命。(2月)
寛政3年(1791)46歳 葵小僧を逮捕。
寛政7年(1795)50歳 5月19日死去。
(Wikipediaより)

  鬼平犯科帳でお馴染みのように、平蔵は若いころは名うての不良で「本所の鐵(てつ)」呼ばれと恐れられていました。また、父がせっせと貯めた財産を遊郭通いや派手な生活で使い果たすなど、放蕩無頼の青年時代を過ごしました。しかし、経歴を見ると順調に出世を遂げており、41歳で武官の最高位である御先手組弓頭(おさきてぐみゆみがしら)に任ぜられていることから非常に優秀な人だったことがわかります。そして火付盗賊改長官を兼務(加役)すると、神道徳次郎や葵小僧といった大物の盗賊、凶賊を次々召し捕りました。また、的確で人情味あふれる仕事ぶりは庶民から非常に人気がありました。

石川島人足寄場
 そして意外なことですが、民生官でもない平蔵が無宿人たちのために石川島に人足寄場を設立しています。当時無宿人と言えば犯罪者予備軍扱いで、佐渡金山に送られて過酷な労役に従事させられることになっていましたが、平蔵の人足寄場はこれら無宿人を更生・社会復帰させるための施設で、職業訓練や労務に対する級金の支給、そしてそれを貯金させ更生資金に充てさせるなど、当時としては異例の手厚い更生施設でした。悪事は決して許さないが、犯罪者とならざるを得ない彼ら境遇には同情していたということでしょう。平蔵の人となりを示す事実です。
 また一面、この人足寄場を設立するにあたって老中松平定信が資金をケチったため、運営資金が不足すると、平蔵は幕府から資金を借りて銭相場に突っ込んで、その利益を運営費に充てました。当時も今も公金をこのように勝手に運用することは許されないことですが、金を出し惜しみした手前、松平定信もしぶしぶ了承していたようです。しかし、潔癖症の定信は平蔵を嫌っていたらしく「山師などと言われ兎角の評判のある人物」と評していたそうです。しかし、いざというときにはその辣腕を発揮して型にとらわれず結果を出すというところも平蔵の人となりで、当時の形式主義、前例主義の武士たちとは一線を画しているところです。


永代橋から見る佃島リバーシティ。かつて人足寄場はここにありました。

火付盗賊改めとは?

 さて、平蔵といえば鬼の平蔵、悪党どもを震え上がらせた火付盗賊改のお頭としての立場がイメージとして定着していますが、火付盗賊改めというのはどのような職だったのか調べてみますと、火付(放火)、盗賊(強盗団)といった凶悪犯罪専門の取締官で、代々御先手組頭が兼務しています。江戸の治安は町奉行所が取り締まっていたのですが、彼らはあくまで警察官。コソ泥や殺人犯を捕まえることもあれば、民事訴訟を裁くこともある民生官でした。対して火盗改めは御先手組頭が兼務する役職と言いましたが、この御先手組というのは幕府の常備軍、しかも先陣を切る最精鋭部隊のことを言います。つまり超エリートの軍組織なのです。江戸時代も中期になると凶悪で広域、しかも武装した組織犯罪が増えてきました。それらは往々にして証拠隠滅のために放火することが多かったので、町奉行では対処しきれなくなってきました。火盗改めはそれに対応するために作られた組織だったのです。おのずと捜査や取り調べが荒っぽくなり、幕府内や庶民から嫌われたりもしました。
 平蔵がそれまでの火盗改め以上にばんばんと凶悪犯を検挙できた理由としては、頭脳明晰、剛毅果断な性格と能力の他、本所の鐵として恐れられていた若いころの経験が大きかったと思います。そのおかげで庶民の生活や世情に明るかったこと。また、犯罪事情に精通していたことが大きく寄与しています。そして、このことが捜査に不可欠な優秀な目明し(密偵)を多く召し抱えることができた理由でした。鬼平犯科帳では五郎蔵やおまさといった人たちですが、目明しの素性は元犯罪者であることが多く、犯罪者だったが故、その筋の情報に明るく、また情報ネットワークを持っていました。優秀な目明しがいればいるほど検挙率が上がったのです。ただ、人足寄場の資金稼といい、身分卑しき目明しを多数召し抱えたことといい、このようなやり方は同僚や幕閣からは不興を買っていたようで、これ以降出世からは遠ざかったようでした。
 この長谷川平蔵がなぜ北関東を荒らし回っていた神道徳次郎を検挙で来たのでしょうか?それには大宮宿の女郎の千鳥の事件が大きく関わっていると思うのです。

次号に続く

*参考資料・文献「鬼平 長谷川平蔵の生涯」重松一義、さいとう・プロダクション公式サイト、Wikipedia


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